●草間彌生『永遠の現在』/闇や地獄や苦悩を取り込むこと/水玉世界での救い
以前、草間彌生の巨大な自画像を見てとてつもない衝撃を受けてから、にわかに彼女のファンになっていたのだが、
先日古本屋で彼女の作品集、『永遠の現在』なるものを見て思わず買ってしまった。
この作品集は2004年から2005年にかけて日本各地5箇所で行われた彼女の展覧会の図録やカタログとして出版されたものであるのを買ってから知ったのだが、
展覧会の図録が往々にしてただの画集よりも安い上にテーマも熱意もある素晴らしい解説書であり作品集である事が多いように、
この図録もなかなかに素晴らしい出来であった。
何よりも彼女の人生と作品が時系列で並べられて、すべての作品がカラー掲載されており、
本の作りも装丁もページが割れたり沿ったり曲がったりしないような立派な作りになっている。
彼女の作品が実際にどんなものであるか余り知らない人は「草間彌生」でイメージ検索すれば大量に出てくるので見てほしい。
「草間彌生」と言えば、この強烈な水玉であるが、すでに彼女が10歳の頃に書いた絵にこのようなドット柄が登場しているのにとても驚いた。
このドットというか水玉の模様は、幼い頃からずっと統合失調症であり続けた彼女にとって、「耳なし芳一」の経文のように、自らを自らの幻視や幻聴から守ってくれるイメージであったようだが、彼女が10歳の頃からすでにそういった戦いを戦い、まだ今も終わることのなく戦い続けていることに本当に驚いたのだ。
彼女自身が見る幻視や幻覚や幻聴を描きとめる絵からスタートした彼女の作品は、見ていると彼女の見た幻視や幻覚を追体験させられるような気がするし、彼女のうちに潜む地獄や狂気が生々しく現れているように思える。
しかし、その彼女の作品から受ける生理的なところに突き刺さるようなインパクトは、同時にそこから感じられる強烈な生命力やエネルギーといったようなもので見るものを圧倒する。
昭和一桁生まれでありながら、ずっと「前衛」と言われ続けているところの彼女の尽きることのないエネルギーは、強烈なアルファ線を延々と放出し続ける半減期87.7年の自然界にはほとんど存在しないプルトニウム238みたいなもんですな。などというといろいろなところから怒られそうだ。
この本の冒頭に掲載されている彼女自身による「創造へのプロセス」という文書に
そう人間とは何か、「愛」とは何か。「生」と「死」とは何か、といった、ことについて、今まで以上に斗わねばならないと決心している。
ふと気がつけば、すでに夜が明けてきたのだ。窓の外はうす明るい光が充ちてきた。
何という深夜の芸術との斗いだったのだろうか。永遠の現在の中で、くめどもつきることのないあこがれ。私の人生の中での絶えることのない自殺への願望を、いつも救いあげてくれた、かけがえのない生命力。
そして、芸術によってすくわれた私の、すべてを内包する、「愛はとこしえ」に対する万物のへのメッセージ。
とある。
彼女にとって、自らの幻視や幻聴を作品にし、それを水玉で埋め尽くす作業と言うのは、自己療養であり自己表現であり、また何かに対する回答や意思表明や世界解釈でもあるのだろう。
彼女は自分自身を苦しめる幻視や幻聴を消し去るのではなく、むしろそれと同居してそれを表現する事を通して世界を解釈し自分自身を救いつつあるように見える。
水玉に包まれる彼女のなんと幸せで楽しそうなそうなことか。彼女は水玉世界で自らを救ったのだ。
自分の中の心の闇や地獄や苦悩を表現することで何かが変わるわけでもない。前に進むわけでも、光が見えるわけでもない。
それでも、そういうものを表に現してしまうことは何かしら自分にとっても人にとっても意義のあることで、逆にそれを自分のものとして取り込む方法でもあるのだなぁと思ったのであった。
そして、草間彌生のようにそれを成し遂げつつある人を見ることはなんだか勇気付けられるのであった。