●北川東子『ハイデガー 存在の謎について考える』(シリーズ哲学のエッセンス)
北川東子『ハイデガー 存在の謎について考える』を読了。とは言っても分量としてはほんの100ページほどなので、読み始めれば一瞬である。
今までハイデガーに関しては何となくわかってるつもりでいたけど、良く考えてみれば『存在と時間』の著者で、存在について考えた人で「存在とは時間性である」って言った人。くらいの認識しかなかった。なんじゃそりゃ?
で、とても短い本やったけど、俗に言う前期ハイデガーが何を目指してどういう事を言おうとしていたのか(と著者の北川東子が思う)、という所が良くわかった。
この本は卓上の空論になりがちな「存在論」を一貫して我々の生活と人のレベルで語っていたのがとても良かった。
そして、なんというか、読んでいてとても感動した。道ならぬ恋、ナチズムとヒトラーへの傾倒など余りに人間臭い状況に投げ込まれたハイデガーだからこそ到達した「存在」の姿はちょっと感動的やった。
というか、これはハイデガーと言うよりは著者の北川東子のお人柄のせいかも知れんけど、こういう系統の本を読んで感動したのは久しぶりである。
存在論と言えば最も古典的で概念的な哲学のジャンルであり、「存在するとはどういう事か?」とか言って余りに生活のレベルと乖離していると見做される事が多いわけやけど、存在については「なぜ存在するのか?」って問い方もあるわけである。
「存在するとはどういう事か?」って問題を真剣に悩む人はそんなにいないやろうけど、「なぜ存在するのか?」については、生きる意味とか死ぬ意味とか、身近な人との別れや出会いの問題に関わるわけで、意識しないまでも結構だれでもがシリアスな問題として対面しているのは間違い無いやろう。
存在論を「存在という言葉の意味」と「存在する事の意味」の二つに分けながらも、世界に投げ込まれる形で現実問題として存在している我々の次元で、それら二つの存在の意味を統合して問い続ける事こそが、循環論法である「思考の祝祭」として、自らが途上にある事を真に受け止める事こそが自己存在の認識であるらしいけど、それは結果として今まで試みられてきた定量的な観測が放棄された事でもある。
自分を中心にして自分と対立するものとして世界を眺めるデカルト的なやり方で私が世界を見るのではなく、自分にとって現れるのが世界であり、自分は世界の中で選択の自由に対して開かれている存在であるという認識は、デカルト的ではっきりした事実認識である古典力学な世界観から、異なる結果の重ね合わせの状態を事実であるとする量子力学的な世界観への移行と似てるなぁと。
と『存在と時間』も読まずに入門書だけ読んでそこまでいうのは危険やなと思いつつもそんな事を思った。