●阿部和重『グランド・フィナーレ』
阿部和重の作品は今までに一冊だけ『インディヴィジュアル・プロジェクション 』を読んだことがあるだけで、この『グランド・フィナーレ』で二冊目になる。
内容はどうしようもない(とされる)ロリコン男の話である表題作の「グランド・フィナーレ」を中心にした、架空の町「神町」で展開する物語群、いわゆる「神町サーガ」なるものの中篇+短編集と言える構成で、2004年下半期の芥川賞受賞作である。
アマゾンやらwebの評を見ていると『インディヴィジュアル・プロジェクション』の方が評価が高いようやけど、個人的には『グランド・フィナーレ』の方がはるかに良かったように思う。
『グランド・フィナーレ』を批判する人は予定調和か破滅かが現れる前に幕となる終わり方に不満を持っているパターンが多いようで、確かに俺も唐突に終わった「グランド・フィナーレ」に唖然としたものの、そこは小説に何を求めてるのかってだけの話になるんやろうと思う。
こういう終わり方でしか表現できないものもある筈やぞと。
この本の中の半分以上の量を占める中篇である「グランド・フィナーレ」の主人公は、昔の小説ではありえないような、人間的な魅力も力も無く、シンパシーも尊敬の念も抱きにくいだけでなく、限りなく地味でかつ読者に嫌悪感をもよおす様に設定されたタイプの人物である。
最近でこそ作者が主人公の力で物語を引っ張ってゆくのを放棄するような、こういったタイプの主人公は多いけど、阿部和重の場合は物語の舞台であり、他の小説でも頻繁に登場する(らしい)「神町」を物語の中心でかつ核心におくことでこういった「最低な主人公」を動かすことが出来るのだろう。
最低な主人公が神町で動き回る中で、「最低」から脱する予感が描かれるのは、伝統的な小説のスタイルを踏襲している訳で、現代的な手法で伝統的なカタルシスを描きかけていきなり終わる、といった構成は、新旧色々なテーマだけじゃなくって文体とか語彙とかも色々な物がミックスされ、全体としてかなり不思議な雰囲気がする。
古くでいえば(古くも無いか)、中上健次が「熊野の路地」を、大江健三郎が「四国の谷間の村」などの特定の「場」を中心に据えて物語を物語っていたけど、阿部和重の場合は「神町」がこのポジションにあたるわけであり、個人的にはこういう雰囲気は良く理解できるし大好きである。
村上春樹は初期に「鼠」とか「羊」とかの「場」を捨てて、最近は新しい「場」を模索しているように見えるんやけど、すでにしっかりした「場」と確固としたスタイルを持ってる阿部和重は凄いなぁ等と思うわけである。
この本の帯には「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」などと大層な事が書いてあったけど、ここまで言わせてしまう雰囲気というか風格は確かにあるように思う。
で、次はその「神町サーガ」の『シンセミア』『ニッポニアニッポン』あたりを読もうと思った。
考えてみれば俺は古い小説が好きなわけで、最近の作家で惹かれるこの阿部和重だとか平野啓一郎からなんか古っぽい雰囲気を感じてるだけなのかと思ったりもした。