ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』新訳版/「なぜ生きるのか」を「なぜ死を選ばないのか」のレベルで問う事
先日、風邪で寝込んでいる最中にヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』の新版を読んだ。
旧訳版は1947年のものの翻訳、この新版は1977年に出た改訂版の翻訳という事になっている。
実存主義系の心理学者であり、精神科医であるヴィクトール・E・フランクルがナチスのホロコーストに収容され、その経験を主に心理学者の立場から語った本で、世界的に有名な名著とされる本である。
旧翻訳版は70ページにわたるアウシュビッツに関する解説と写真図版が付属しており、新訳版はこれらが一切削られているらしい。
旧版はナチスの強制収容所やアウシュビッツの存在がそれほど一般的に知られていなかった時代に出版されたということもあったせいかアウシュビッツやナチスのホロコーストそのものから図版や解説込みで詳細に説明するドキュメンタリータッチに構成され、それらの概念が知れ渡っている現代に即して改定されたのであろう新版は、フランクル自身と特殊な状況から見た人間一般についての哲学的というか人文学的な部分に重きを置いた作りになっているのだろう。
こういった類の本は、読んだ時期によって受け取り方や得るものが全く違うものであると思う。
余りにも有名な古典的名作とされる本だけあって、若い内の中学生や高校生の時に読む人も多いだろうが、やはりその時期に読むのと、私ぐらいのオッサンの年で読むのと、また老人といわれる年で読むのでは全く違って読めるように思う。
私はこの年になってこの本を読んだわけだが、結局のところこの本の、この新版で一番大きなテーマは「なぜ生きるのか」というところに尽きるのではないだろうか。と思った。
アウシュビッツで完全に人格を否定されて単なるモノとして扱われ、余りにも辛い毎日が地獄でしかない日々で気を抜いたら一瞬のうちに死が訪れる。
生きのびる事の辛さと困難さに引き換え死ぬ事は余りにも簡単な状況の中で、それでも瞬間瞬間に死ではなく生を選んで来た人の「なんのために生きるか」についての言葉はとても重みがある。
わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。私たちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって「生きること」の意味だけに限定されれない
と言うように、そういった状況での「なぜ生きるか」という問いは普段我々が単純に考えるような生きてる事を前提に問われるポジティブな「生きる意味」として発せられるのではなく、「なぜ死を選ばないか」という本当にギリギリのラインに立った上で、自らの苦しみや死をも含めた上で発せられている。
「何のために生きるのか」を「なぜ死を選ばないか」のレベルで問う事は、結局「なぜ私はこういう運命を引き受けるべきなのか」といった問いに置き換えられるのだろう。
その余りにも危険な暗くて冷たい深遠を薄氷を踏むように息を詰めて通り抜け、そしてどこかに浮かび上がって初めて、
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ」
「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。」
とフランクルの述べる答えのようなものも導き出されるのかもしれない。
とはいえ、フランクルの至った結論は言葉では理解できても実感として本当に理解するのは難しいだろう。結局、その深遠と暗黒を通り抜けて答えを出すのはその人本人しかできないのだ。
しかし、それでも、「なぜ死を選ばないか」のレベルで死に物狂いで「生きる意味」を問い、そして何とかサバイバルできた人が、自らの経験とそこから得たものを同じように絶望している人に向けて必死で伝えようとしている事自体が、同じように絶望して苦しむ人にとって、励みになり導きになり救いになるのではないだろうか。
わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかを常に決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入ってもなお毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
とフランクルは言う。
我々がその人生で選べる選択肢というものは思ったほど多くない。見方によればほとんど無いとも言えるだろう。
しかし、それでも、その限られた選択肢の中からでも、自らが何かを決定する自由だけは誰も奪えないと言う事なのだろう。
彼の言う
もはやこの世には神よりほかに恐れるものはない
という最後の結論もそこに深く深く根ざしているように思った。