村上春樹:『1Q84』 / あっさりな、余りにあっさりな /「デタッチメント」から「コミットメント」への移行
限られた狭い範囲内で「図書館戦争」と呼ばれるものの先陣を切って首を取り、村上春樹の『1Q84』 を読むことができた。
巷では発売当初に売り切れるほどの勢いで売れに売れたこの本の評判を聞いて、まるでいつの間にかメジャー路線の老若男女を集客しているヱヴァンゲリオンのようだと思ったのは私だけではあるまい。
最近、本にしろ映画にしろ売れるものは極端に売れて、売れないものはまったく売れないという二極化が加速しているような印象を受ける。
売れているらしいものに人が飛びつくことで指数関数的にその勢いがどんどん加速されるという構造は、自分自身でモノを見て選択する目がなくなったというよりは、極端にハズレを引くのが恐ろしいという心理であるように思うのだが如何だろう。
まず統計的情報ありきで次に自分の判断が入るのは良くも悪くもネット時代、というよりは、単に不景気だからかなという気もする。
というのが『1Q84』 の売れ行きを見た感想であるけど、以下からはやっと本についての感想を…
この村上春樹の『1Q84』 はあえてまったく本の中身に関する情報や感想を見ることなく、まっさらな前知識なしの状態で読み始めた。一気に二日か三日で上下巻 (BOOK1 BOOK2)を読んだのだが、確かにストーリーテーリングの巧みさでぐいぐい引っ張って行き、一気に読ませる面白さはあった。
読後感は「あ~面白かった」であるけど、逆にそれだけしかない。長大な長編小説を読み終えた後に特有の何かが残る感覚はあまりない。読んでいて印象的な言葉や文がとても多かっただけに、不思議な読後感である。
読み始めてすぐに村上春樹的な比喩と言い回しがブイブイ出てきて「うわっ春樹臭!」と思わせたところでそれをすぐにひっくり返されて圧倒された。「どひゃ~参りましたハルキ様m(__)m」てな具合である。もう、つかみで読者は村上春樹の思うが侭にコントロールされることを受け入れてしまうのである。
で、この本はガーッと自動著述マシーン的に物語が溢れるままに書いた勢いを感じるというよりは、短編的な構造を緻密に構成した精巧な物語であるように見える。全編を通して彼の短編を読んだ時のような上手いな~という印象である。自分の書きたいことを思いのままに書いたというよりは、自分の書くべきことを考えて抜いて書かれた。という感じであろうか。
「何じゃこれ?」的な前作『アフターダーク』の三人称のリアリズム小説の手法というやつも、「はは~ん、これがしたかったんやな。」と思わせるところが多かったし、手法的な意味で今までの彼の小説の集大成的な部分は感じられたような気がする。
村上春樹を長編小説よりも短編小説で評価する人も多いけど、この1Q84は彼の短編小説的な手法で組み立てられた長編小説ということになるのではないだろうか。そしてそのテクニカルな部分の組み立て方は読者に対してわかりやすいという親切設計である。見栄えのあるショーを披露した後にちょっとだけタネをばらして客を楽しませる手品師のような感じか。
とは言っても、私は昔から村上春樹が好きなので、彼に多大な期待を抱いているがゆえの感想なのかもしれないが、この1Q84は長編小説としては冗長で無駄が多すぎるような気がする。つまり、内容の割りに長すぎる。
さらに言えば、村上春樹は登場人物をとても丁寧に造形したらしいけど、キャラクターの重みや魅力や存在感が少なすぎるように感じられたのは決定的なダメージであるように思う。個性ある脇役はもちろん、主人公の二人でさえ薄っぺらい印象、特殊能力があったり個性的であるだけで魅力や惹きつけられるものを感じない。
特殊能力はないけど魅力あふれ過ぎるカラ兄のキャラクターたちと雲泥の差である。あのキャラクターが濃いはずの牛河でさえあっさりしすぎて、スメルジャコフの足元にも及ばない。
まぁ、カラマーゾフの兄弟と比べるのは酷なのかもしれないということで、この1Q84と同じ構成の村上春樹自身の1985年の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 と比べてみた場合でも、「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の二つの物語がはっきりと静と動の関係になってコントラストとなっていたのに対して、「青豆の物語」と「天吾の物語」はあまりメリハリを感じないダラダラした印象を受けた。
更にトリックスター的な「ハードボイルドワンダーランド」の「ピンクの太った娘」のキャラクターに引き換え「天吾の物語」の「ふかえり」はあまりにもあっさりしている。なんとも悪い意味でアヤナミ的である。逆にアヤナミ好きならツボにはまるのか?よく分からない。
そして『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 での「やみくろ」に読者が抱くであろう強烈な存在感と印象は、この1Q84の「リトル・ピープル」に全く感じなかった。そして「ピンクの太った娘」がやみくろの巣の中心部で「ピンクの歌」を歌うような、あまりにも美しくて印象に残るシーンも1Q84には無い。
つまり、『1Q84』 はストーリー的にもキャラクター的にも波乱万丈の構成にもかかわらず、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 に比べてあまりにもあっさりとした印象を受けるのだ。
『カラマーゾフの兄弟』に代表される長編小説が方向性としては「こってり系」であることに異論のある人は無かろう。そのカラ兄がこってり系であるがゆえに、長編小説もこってり系であれ。ということになっているのかもしれない。
情熱が強すぎる事で社会からの軋轢に苦しむ時代はもう過ぎたのかもしれない、今の時代は逆に情熱が無さ過ぎることで社会の底辺に埋没しそこであえぐ人が多い時代である。
とても好意的に捉えれば、そういう意味で、このあまりにも「あっさり系」の1Q84はこってり系マンセーな旧時代的長編小説に現代的な「あっさり系」で勝負を挑んだ小説であるといえよう。
また更に言えば、現代の危機というものは、今までのようにやみくろ的な「こってり」とした構造で襲ってくるのではなく、リトル・ピープル的な「あっさり」とした文脈で捉えられるものでしかないということも言えるのではなかろうか?そして村上春樹はそんな現代的な「あっさり」な危機を描いたのだと。言い過ぎ?
青豆の物語の最後がああなることで不満を炸裂させてる人が多いようであるが、そんなものは予想された範囲内での出来事であるように思う。もしBOOK3が出ることになっても、やろうと思えば『魁!!男塾』的に「お、お前はーっ!」で事態は回収できるではないか。
しかし私にとってそれ以上の驚きは、それだけはありえんやろうと思っていた「天吾」と「ふかえり」の関係が最後にああいうことになったことである。
私はとてもびっくりした。そうする必然性も蓋然性も偶然性も全く何もないではないか。
熱湯の入ったバスタブに腰掛けた状態での「押すなよ!押すなよ!絶対に押すなよ!」があらゆる文脈で「押してくれ!」の合図でしかないとされるように、読者が「それだけはありえん」と感じていた。というだけの理由でそれが行われたようにしか見えない。
しかし、逆にそれは「おれたちにできない事を平然とやってのけるッ!そこにシビれる!あこがれるゥ!」と評価してもいいのではなかろうか。
この本で一番印象に残った言葉は、青豆が社会正義(と思われるもの)として行おうとしている行為に対する報酬を断ろうとした時に、老婦人が青豆に対して柳屋敷で言ったこの台詞だと思う。
BOOK1 P330
混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎとめておく必要があります。
この言葉は個人的に色々な意味で心に染みた。恋愛にしろボランティアにしろ人助けにしろ社会活動にしろ、純粋な愛情や憐憫や正義感のみで動くのは着地地点が見つからないどころか危険ですらあることが多い。そんな純粋な感情は何かしら社会的で即物的な利益と結びついてこそちゃんと実を結ぶのだなと深く自戒を込めて思った。まぁ往々にして「自戒」と言うのはすでに遅すぎる段階で行われるのであるが…
また、それとは別に、多分この上の台詞が村上春樹の思う社会との係わり方の基本的な考え方であるだろう。
彼が最近執拗にあからさまにノーベル文学賞受賞に向けてパフォーマンス活動をしているように見えるのにちょっとした違和感を抱いていたけど、この箇所にそんな考えに対する彼の釈明を見た気がした。彼自身の社会的意義や貢献を求める純粋な気持ちは、ノーベル文学賞を受賞することで、彼自身の即物的な利益や地位を増加させるだけではなく、より小説家として彼の物語を世界に広める事の出来る動力や環境となる側面もあるだろう。
日本の文壇から背を向けていた村上春樹なる孤高の異端児は、今や日本の枠をはるかに超えて、世界的に強力な商業的、社会的、文化的影響力を持つ存在となった。
そんな彼がこの本で「物語」なるものの役目について天吾の台詞を介してではあるが、直接的に語っているところにかなり驚いた。なぜならそれは彼自身が小説家として「物語」を書くことの意義を語る事と同義でもあるからだ。
BOOK1 P318
物語の役目は、大まかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、回答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には断たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。
デビューからしばらくはデタッチメントな文脈で自分の語りたい個人的な問題を一個の個人として自己表現の一環として書いていた彼は、この本では個人として社会とコミットした状態から社会の問題を「物語翻訳」して別の物語として提示している事になるのだろう。
彼は彼なりに物語を書く小説家の社会的な意義を見出して、それにのっとって小説を書くことで社会的にリアルにコミットしているという事になる。
この小説の根底に震災とオウム問題が流れている事を否定する人はあまりいないと思う。そういう意味でこの本は小説家村上春樹にとって今まで短編やノンフィクションで言及することで整理してきたオウム問題や震災に関するひとつの(物語的)回答なかもしれない。
村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』 の発表当時、今までは「デタッチメント」がテーマだったが、今は「コミットメント」に変わってきている旨の発言をしている。
デビューしてからしばらくの彼の「デタッチメント」な作品群に共感を覚える読者は「コミットメント」後の村上春樹を受け入れられないと良く言うけど、そもそもの物語る動機も目的も違うのであるから、違和感を抱いて当然と言えば当然かもしれない。
つまり、『ねじまき鳥クロニクル』 以降で村上春樹と上手く同調して「デタッチメント」から「コミットメント」にシフトできなかった読者は、そこで置き去りにされたような感覚を抱くのだ。
しかしこの物語は物語全体として見れば社会にコミットした文脈で語られる社会の問題についての物語でありながら、登場人物個人の単位で見れば、色々な物からデタッチすることでサバイバルしてきた青豆や天吾が世界や人にコミットする事を決意する過程を描く物語でもあった。
村上春樹自身にとって「デタッチメント」が「コミットメント」に変わる引き金がオウムや震災なのだとしたら、この小説は青豆や天吾の「デタッチメント」から「コミットメント」へのシフトを描くことで、色々な意味で彼が置き去りにしてきた「デタッチメント時代」の読者と、現在の「コミットメント時代」の読者の両方を統合するような試みもあるかもしれない。と思った。
でもまぁ、それも村上春樹を読んで来た読者に対する話で、この本で初めて彼の小説を読む人には関係のない話ではある。
村上春樹好きとしてこの『1Q84』を村上春樹をほとんど読まない人に薦めるかといえば、もっとほかに読むべき本はあると思う。
私のとってあらゆる意味での村上春樹の最高の物語が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 であり、最高の小説が『風の歌を聴け』であるのは変わらないが、個人的には村上春樹の新作が読めるだけでそれはそれで満足というところはある。
と、村上春樹というだけでついつい興奮して長々と書きすぎた割に、面白そうなテーマは練りきれてないし掘り下げていないような気がする。また書き直すか新たにテーマを発展させてエントリを作るかもしれない。
とりあえず今日はこれまで。
どもどもご無沙汰です。
そうでした、Book3出たんですね。
牛河の章があるってのは楽しみです。ちょっとほとぼりが冷めたころに読もうと思ってます。
御無沙汰しております。
本日Book3を読み終えました。
ぐいぐい読ませるところは、Book3も同じです。今度は牛河の章もあります。確かに頁が進む割にストーリーが進まない感も・・・。
そう言えば、「世界の終わりと・・・」の文庫も新装で、活字のフォントが少し大きくなり、読み易くなっておりました。値段がちょっぴり上がりましたが、再読しようかなと思います・・・。